
最近、鬼滅の刃がまた再燃している。
二期が始まったらグッズ争奪戦になる、転売ヤーからでも買っちゃうかも――
そんな声を見かけて、どうにも引っかかってしまった。
古参だから何、と思う。
過去のグッズ写真を並べて「ずっと推してきた」と言う人たちに、
新しいファンへのマウントを感じてしまう瞬間がある。
わたしもたぶん、古い方のファンだ。
でも、同じ時期を知っている人たちが
「古参カード」を切って優越感ゲームに参加しているのを見たとき、
小さく「え?」と声が出た。
あの違和感は、ちょっとした裏切りみたいな痛みだった。
“過去に縋る古参”と、“今も息をしている古参”は違う。
わたしは、後者でありたいと思う。
グッズも、なんでもかんでも「ありがとう公式」にはならない。
全部を受け入れるより、
作品の呼吸をしているものだけを選びたい。
それが“好き”を守る方法だと思っている。
一時期、推しのビジュアルがどうしても受け入れられない時期があった。
作画が崩れたように見えて、アニメを観るのが辛かった。
でも、公には言えなかった。
「かわいい」「最高」の声に混ざれなかった夜の静けさを、いまも覚えている。
それでも、今期の推しは圧倒的にかっこいい。
ファンが増えて、再販されるグッズも出てきた。
それを嬉しいと思う。
けれど、古参マウントには行きたくない。
好きな気持ちを、誰かを踏んで証明したくはない。
新しいグッズや再販を喜ぶ気持ちはある。
でも、自分が買えなくなるのを嫌がる人を見ると、
少しモヤっとする。
「昔から知ってた」と言いながら、
人気キャラとのCPで盛り上がる姿を見ると、
“なんかずるいな”と思ってしまう。
それもまた、正直な感情のひとつだ。
わたしは、楽しく関わりたい。
ただそれだけなのに、温度差に焼ける夜がある。
同じ作品を好きなはずなのに、
話してみると息が合わない。
“好き”って同じ言葉なのに、
それぞれが違う方向を向いている。
わたしは作品に向かって熱を注いでいる。
でも、誰かは周囲に向かって「好き」を主張している。
その矛先の違いが、痛いほどはっきり見える。
それでも、好きの温度を無理に合わせる必要はないと思う。
違う熱を持ったまま、そっと並んでいられる関係が、
いちばん穏やかで、誠実なファンのかたちだと思う。
















